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「八月ジャーナリズム」をどのように考えるか

「八月ジャーナリズム」という言葉がある。これは、マスメディアが八月六日の広島への原爆投下、八月九日の長崎への原爆投下、八月一五日の終戦などの戦争関連の出来事を中心に当時を振り返るというものである。近年では八月一二日の日本航空一二三便墜落事故なども同様に取り扱われている。


記念日をもとにその出来事を振り返ることは非常に多い。例えば和歌山毒入りカレー事件の発生日である七月二五日には、林死刑囚についてのインタビュー記事などが各メディアに掲載された。「八月ジャーナリズム」は特に八月にそうした出来事が集中しているということなのだ。


毎年その記念日に思いをはせ、式典をおこなうといったことは、出来事を後世に紡いでいくという観点において非常に重要である。しかし、ジャーナリズムは毎年毎年同じようなドキュメンタリー、インタビューを継続するべきなのだろうか。先ほどの論理を応用すれば、戦争の記憶を後世に紡いでいくという観点が考えられる。では、戦争を知っている世代が亡くなった時にはどうするのだろうか。


こうした点への考慮がしっかりなされていないのが現在の「八月ジャーナリズム」だ。記事が読まれること、番組が見られることに重点を置いている結果、必要な情報についてタイミングを見計らって出しているのだ。


その最もたる例が安倍晋三元首相銃殺事件だろう。この事件では宗教団体「統一教会(世界平和統一家庭連合)」と安倍氏を含めた政治家との関連性が取り沙汰されているのは皆様もご存じだろう。しかし、こうしたカルト宗教との関連性は岸信介氏が存命の時からであったとされている。新聞やテレビは人数や人脈を活かした取材活動を展開している。こうした情報も入手しているはずだ。統一教会は霊感商法で問題になっている。組織的犯罪をおかしたわけではないが、そうした団体と自民党の関係性を指摘することはできたはずだ。


しかし、メディアはそうした指摘をおこなうことなく、元首相銃殺という事件が発生した。そして、銃殺後に統一教会と自民党の関係性を指摘し始めたのだ。これは「ニュースバリュー」と呼ばれる、先述の「記事が読まれること、番組が見られること」に重点を置いた結果だ。


「八月ジャーナリズム」はこの「ニュースバリュー」を意識していると言ってもいいだろう。出来事を報道するだけで良いのであれば、硫黄島の遺骨収集の状況、慰霊式典の様子などを報道するだけで問題ないのだ。それをわざわざドキュメンタリー、インタビューを配信するのがその象徴ではないだろうか。


共同通信社や徳島新聞を除いた多くの新聞・テレビの法人形態は株式会社であり、利益を上げる必要がある。情報を用いて利益を上げることは否定しないが、利益至上主義に走り「ニュースバリュー」を気にするばかり、本当に報道するべき情報が後回しにされたり、特定の番組、記事を優先したりする姿勢は評価できるものではないだろう。先述の問いである「戦争を知る世代が亡くなったときにどうするのか」というのも現状のジャーナリズムの課題と言える。


こうした課題をメディアが認識し、人々に記憶を紡いでいくこと、真実を報道することに重点を置くということも必要になるのではないだろうか。特に最近は「CSR(企業の社会的責任)」が問われているという。単に利益を上げる利益至上主義から転換し、真実を報道することに重点を置くことでマスメディアの社会的責任を果たすことができるのではないだろうか。

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